昭和57年07月10日 月次祭



 今日で十日間を終わりました。昼の一時からの御祈念修行でございます。合楽名物のようになりました。もうここのお広前で一生懸命に、昔は大祓いでしたが、今は祈念詞を奏上出来る御祈念はこの夏季信行だけ。もう本当に一生懸命。もうそれこそ前の方にタオルを敷いて座らなければ、下の方が汗で形がつくというぐらいに非常に一生懸命。もうですからここの一番前からいっぱいです。それだけみんなが一生懸命やりますから、もうそりゃすさまじい勢いで御祈念を、皆さんがなさいます。
 私はここのご結界でそれをじっと、まぁ皆さんの御祈念をお取次させて頂く訳でございますが。今日ご祈念半ばに、後先の所は分かりませんでしたけれども。「何を言うか」と、「筋金入りだよ」と言った様な、セリフの様な感じで頂いたんです。筋金入りだよとこう。それで今日の御理解の、最後の所をそれを書き加えさして、塗板にそこん所が書いてございます。筋金入りと言う事はどんな場合であっても狂わない。
 動かない筋金が入ってる。所がねいかに筋金が通っておるの、入っておるのと言うても、それがおかげに繋がらない、お徳に繋がらないでは、これはいうならまぁ、つまらない話であります。今日ここで修行しております、坂根先生が自分のお教会の、教会長の代わりにこの御本部で、先生方の二泊三日ですかね。修行ここの若先生も参りました。もう何回にも何回にも分けて、日本の全国の教会長が集まって、まぁ百年祭を目指してのまぁ信心の研修というか、心構えといった様なものを頂く研修であります。
 昨日帰って参りましてから、今日ここで三時の研修の時に、何かお土産になる話。これは行って良かったと言う様なお話が、何か無かったかと言うてお話を聞きましたら。こうすればこうなると言うて教えて下さる先生も。またそういう発表の一つもなさるような先生はおられなかったと言うのです。ではなかろうかというのです。今度教祖様の新しい御教えが、沢山今度新たな教典が出来る訳でしょうが、その新しい教典の内容についての、お話やら承ったけれども。
 お話をしておる先生自身が、教祖様のお言葉の難しさに、ではなかろうかと思うという様なものであって、だから私は教祖様の御教えというものは、それは私どもも分からん本当の事は。分からんけれども私は思うのにその教えが、私を救い助けてくれる。それを行ずる事によって、おかげが確かであるという、答えが出てこなければならないと思うんです。いわゆる確かなおかげという、その実証を踏ん前ながらの、教祖様の御教えでなからなければならない。
 中にお年寄りの先生方も、随分見えておって矢張り何十年お広前の御用をなさった先生方の、言われる事は非常にこうまぁ革新的なお話である。けれども良く良く聞きよるとはぁこの先生は頑固だなという風にしか聞こえない。その証拠には対してお教会にゴヒレイは立ってはいない人は助かってはいない。これが本当だとこう言うてまぁ何十年間それを続けてきた。いうなら筋金が入っておると自分では思うておるけれども、それがおかげにも徳にもなっていないとするならばそれは可笑しいです。
 今日私が一時の御祈念の後に、皆さんに一口聞いて頂きましたように。合楽にご縁を頂いておるからいうならば、合楽理念と言われる、御理念のという筋金が入っておる、と言うだけではいけん。知っておる覚えておると言うだけではいけない。本当にどんな場合でも狂わない。確固たるものでなからなければならんと言う事と同時に、それがおかげに繋がりお徳に繋がる、いうならば筋金入りでなからなければならんというのです。で私は私の話は何時もちっとばかり、だろうと思うと言う事じゃない。
 何時もそのそうだとこう言い切る訳ですね。だからあんまり大体は、いけないそうですけれども。私はまた皆さんに申します。とにかく御理念による信心。筋金というこういう筋金が入った時に本当のいうならば、筋金が入ったと言える時であり。またそういう筋金が入ったら、必ずおかげが受けられる、お徳が受けられるというのです。だから絶対の筋金というのは、どういう事なのか。長年信心しておりますと、またおかげを頂いておりますから狂わない。どんな場合であっても狂わない。筋金が入っとる。
 けれどもその筋金が、ただ狂わないと言うだけではいけない。それがおかげに繋がり、何十年の、この筋金入りの信心をさせて頂いておったら、かくおかげを受けたという、おかげの実証がなからなければ私はいけない。今日私は坂根先生のお話を聞きながら、そういう事を思うた。そういう先生方も随分ありはせんだろうか。長年、お取次の御用をさせて頂いて、一生懸命修行してる。そしてこれだとまぁ確信の持てれる生き方を身につけられて、そしてそれが愈々本当なものだとこう。・・・ね。
 それで私何時でしたか、お道の新聞にこれもやっぱり、そのお年寄りの先生だったと思いますその文章から。まぁ教団を憂えての一文が載っておりました。それに見出しに太子一番と書いてある。太子一番。ようこそ教師信徒が一つになって、太子一番の時ではなかろうかと言うのです。そしたら私そのような意味が見えておりましたからね。そしたらその太子一番という、上の方、点ばちょっと、押して頂いた所を頂いたんです。どう言う事になりますか。太子一番が犬死一番と言う事だ。
 その先生がもう本当にいわゆる、教団愛に燃えておられる様な文章でした、今までの事じゃ駄目だ。今までの事になったら愈々詰まらん。ここで(胸を叩いて)っという様に、まぁ激しい言葉を使いながらの、いうなら論説でしたが。神様はそれに対して太子一番の自分は積りであっても。それは神様の目からご覧になると犬死一番。ほんならお前がどれだけ徳を受け、力を受け人が助かっておるかと言う事になる。お互いその犬死一番的な筋金ではいけないと言う事でございます。
 本当に太子一番一心発起させて貰うならば、それが絶対のもの間違いのないもの。絶対おかげに繋がる、お徳が受けられる。そしてそれを確信を持ってまた人にも伝えられる、という様な信心でなからなければならない。今日昼皆さんに聞いて頂いた。この生き方で行くならば、絶対だよとこういう訳。今日の昼の御理解は「とかく信心は地を肥やせ」という事であった。地を肥やしておけば、ひとりでにものが出来るようなもんだと言う御理解でございましたが、今日のは皆さんも良く承知であろうと思いますが。
 「養素拝山」と言う事についての短い御理解でした。心を養う素お互いが豊かな大きな、おかげを頂きたいと願わん者はありません。だからどうぞどうぞと言うて、まぁ様々な修行をする。まぁ様々な修行の中から、いうなら確信的な心も育ってくるかも知れませんけれども、それじゃいかん。豊かな大きなおかげを頂きたいならば、その信心がそのまま力になり、徳にならなければいけない。大きな豊かなおかげが頂きたいなら、まず自分自身の心が大きくならにゃいかん、豊かにならなければいけない。
 その手立てが合楽では色々に説かれる訳。それをほんなら「養素拝山」と言う。自分の心を愈々、豊かに大きく養うて行く素は、難儀を押し頂いて受ける修行だと言う事。やっぱ修行が要る訳です。初めから中々、ね。嫌な問題もある。向こうへ押しやるごたる事柄もありますけれども、それを愈々これが豊かになる養素、もとになるのだと。これが受けもの作り、自分の心を大きくする手立てになるのだと、まず分からせて頂いて、その事を一生懸命修行して、繰り返して行くうちに、実験実証が生まれる。
 様々などんな私どもの行く手に、問題があってもそれこそ怖いと思う様な事が起こってきても、心配になる様な事が起こってきても、その一切をそれを神願成就の現れであるとして、受けて行くという姿勢を作る。そして生まれてくる体験によって成程、無駄な事はないなと。あれが私をしてここまで、信心を育てて下さる素であった。あれもおかげだあった、これもおかげであったと言う様に分かってくる。初めて神愛が何たるかが分かってくる。いうならばそこに答えが一切神愛と、合楽で言われる。
 成程一切が神愛であると言う事が分かる。それには「養素拝山」ね。拝山と言うのは、山を拝むと書いてある。山と言うのは修行と言う事である。その修業を拝んで受けられる信心。なかなか、一遍に出来るとは思われませんけれども。これが豊かに大きくならせて頂く、暮らしともなるのだと、段々自分の心に言い聞かせながら、頂いて行くうちにいつの間にか、自分の心が豊かに大きく育ってきている事に気づかせて貰う頃には、おかげもまた豊かに、大きくなってきた。
 初めて神愛と言う事が分かる。そういう信心。いうならば一切が神愛と分からせて頂くと言う、筋金が入らなければならんというのでございます。これならば間違いなしに、おかげもいうならば、お徳も伴うてくる私は筋金である。お互いが自分の信心は筋金入りだと。どんな場合であっても迷わない狂わない、と自分では太子一番のつもりでおっても、それが神様の目からご覧になると、犬死一番である証拠におかげが受けられない、お徳が受けられない。
 さきほど午後に戎浦さん、ご参拝になってきた。この頃から宮崎におられるお兄さんが、お病気だという。まぁ宮崎へあちらへ一等看護婦さんですから、まぁあちらへ見舞にお出でられた。それで癌と言う事であった。開腹手術をすると言うので、お届けがありましたが開腹されたけれども、その癌が転移してもう手の施しようがないと言う事であった。もう、何時何時までの寿命だと言う事までも言い渡された。それでとうとう開けたけれどもそのまま塞いで、・・・所がここ二、三日、毎日手紙が参ります。
 その奥さんから。お婆ちゃんはもう、あちらから今こちらの方へ毎日参って見える。その日参をなさっておられる。あくる日は大変やっぱり苦しみが伴いましたそうですけれども、何か分からんけれども、沢山なものをこう吐かれた。それから大変気分が爽快になった。おかげで一人でお便所にも行くようにもなった。お食事が少し美味しく頂けるようになったと言う様に、もう本当に今まで私が、信心というものを無視してしもうた。お母さんの信心というものを、踏みつけにしてしもうておって。
 姉妹達の信心も受け入れなかったけれども。初めて目が覚めたという手紙が、昨日参りました。今度こそ夫婦揃うてお礼参りが出来るようなおかげを頂きたいと言うてのお手紙でしたが。その事を今戎浦さんの奥さん、お届けがございました。大きなあちらに何とかという病院に勤めておられます。沢山な人が居りますから、いろんな問題も沢山ある。所がね、いうならお兄さんのそうした、病気と言う事を通して、どうでもここに助かって貰うと言う事ではない。
 石川一家がこれによって、信心のいうならば、お婆ちゃんの信心が受け継げれる様な、おかげを頂きたいという願いに、まぁ一家中が燃えておられる。そこで今までとご理念の頂き方が変わってきた。ここでは一口言いたい。ここではこうもと様々な問題が一杯あるけれども。その都度都度にこれがお兄さんが助かられる事のための修行であると。これがご理念の徹底だと思うたら、それが嬉しゅう有難う出来るようになったというのです。だから、私が今晩申しました。
 やっぱ大きな難儀を、こう抱えてからの信心て、素晴らしいのと。出来ておるかのようであって徹底してなかった。所がねそのお兄さんの、その実際自分も看護婦さんとして、見たり聞いたりしてから、色々な事が分かるのですけれども。この事を通して、石川一家の信心にもなるならば、という願いを立てられて徹底しての、いわゆるご理念による生き方が出来るようになった。
 問題は沢山やっぱあるけれども。その問題が一つ一つ自分の心を、豊かに大きくして行く事の、いうならば要素になるのだと、段々分かって行かれる事であろうと思うです。この生き方で行くならば、助かる助からんは別として自分自身の心が、いやが上にも豊かに大きく育って行く事だけは間違いない。その豊かな大きな心に豊かな、大きなおかげもまた約束されるのです。だから一つの大きな難儀なら難儀というものをね。本当におかげ頂きたいと思うなら、御理念による外はないと言われるのだから。
 その御理念による行き方を愈々身につける。今日私は三時の研修が終わって、みんなに今日の朝の御理解の中に、地真水心という言葉が出て参りました。真の信心真の信心と言うが、中々真と言う事が分からないけれども。地の真地の心を心とをする生き方こそ、真だとこう言うのです。地の真と書いて「地真」水の心「水心」、ほんなら地の心とはどう言う事かと。それこそ愈々成り行きを尊ばして貰う、黙って治めると言う様な、生き方に徹底する事である。それが真の信心なんです。
 それをこうこしよったり、それをしだごだにするなら、もう真は限る事になる。水心というのはいわば、素直心の事である。今日その事を竹内先生が、何か何ち言うたか「方円の器」と言ってましたね。「方円の器」と私はそんな言葉は知らなかった。明治天皇の辞世の中に、水のお歌があります。もたまわしきは水の心か何かと言った様な句があったと思うです。もたまわしいて本当に水の心になりたいです。角い入れ物であれば角になり、丸い受けものであれば丸くなれる。
 さぁ丸い器を出されても、私はこれが本当だと言うて、まぁ自分は几帳面だと四角い信心から動こうとしない。いうならばその器に従うと言う事である。水の心というのは。素直である。だから合楽でまぁ素直心の手本のように言われる、地の信心のまぁ手本のように言われるのは誰だろうかという話を致しました。ずっとこう見渡してみてそれが、完ぺきに出来ておるとは思わんけれども、久富繁雄さんじゃなかろうかねというた事でした。繁雄さんは地蔵の徳地の蔵の徳を受けよと神様から頂いておられる。
 または「素直心の一つにて、雲の上まで登る道あり」と三十年も前に、椛目の時代にお書き下げを頂いておる。久富家の家宝のようにして、取ってあるそうです。その素直心と地蔵の徳です。地の信心です。地の真がまぁそれを、愈々本当のものにして行く事だと。誰かがここに色紙を持って来とった、何か書いてくれと。書こうごつ無かったけん、書かじゃったち。そしたらそこにあって、それに地真水心と書いて、これは繁雄さんに上げましょうというて、まぁ上げた事で御座います。
 私はこういう信心なら、もう絶対犬死はならんです。そういう信心に、太子一番いわゆる、一心発起することなんです。地の真。真の信心を求めるなら、地の心を心とする生き方。それにいうならば水心である。これは私の前だけかも分かりません、久富さんの場合は。けれども本当にいうならば私の前では絶妙。奥さんの前やら子供の前じゃどうか知らん。けどもこれが生活全体の上にです、私の前でなさっておられる、いうならば水の心であるならばです。
もう大変なお徳を受けられる事であろうとこう思います。地真水心。これに徹する生き方。間違いいうならば、お徳がまたおかげも約束される。愈々器は豊かに大きゅうなる。それこそひとりでにものが出来る様なおかげにも繋がる。私は教えというものが、おかげにお徳に繋がらないならば、私は教えの値打ちはないと思う。自分はこれが本当だ。私はこれを信ずると幾ら言うても、何十年間それを信じて、やって来とるなら、あの人は頑固だったと言うだけになるでしょう。
 私は金光様の信心から狂わない。私の信心は筋金入りだといかに威張った所で。それが徳にも力にもなっていないならば、あなたは随分頑固でありなさるばいなと言う事になるのです。絶対のもの間違いのないものに、いうならば取り組ませて貰う。そしてそれが私の信心の、筋金になるという時に始めて、筋金入りの信心と言う事が言えるのじゃなかろうか。それを御理念に基づいて銘々の所で、そうした絶対のおかげの受けられる、一つ筋金入りの信心をして頂きたいと思います。
 朝の御祈念にお参りをして来て、一時の御祈念にもまた参ってきた。そして、また今晩のお月次祭には参ってきた。先ほど伊藤さんがそこでお届けされんです。一時の御祈念を終わって福岡に帰らせて貰いました。それでもう夕方のお食事の準備だけして、またこちらへ向かってきた。福岡からですからね日に三回。けれどもねそらおかげ頂きましたねと言うて、まぁ申しました事でしたけれども。神様が中心信心が芯であるならばね。もう家でご飯炊きが出来ただけでも、そりゃもうこんなに有難い事はない。
 所がそれが反対になるとですね。お互いの信心が生活が芯になって参りますとです。はぁちょっともう福岡からてん、何回も合楽に参るち事はとっても出来んとこう言う。けれどもその信心が芯であるなら、それが出来るのです。そしてその合間合間に家でお掃除も出来たり、夕食の準備も出来たと言う事になるです。神様本位の信心というのはそういう信心。そこに信心の楽しみとか、喜びが頂けれる。
 これなら絶対間違いのない。この生き方で行くならば力が受けられるという、間違いのない生き方を愈々身につけて、自分の信心が私本位の信心から、神様本位の信心に。おかげの信心から、信心を頂くという構えが出来て参りますと、それが楽しゅう出来てくるようになる。これはまぁ今日昼の御理解から、これなら絶対間違いのない、こう言う筋金が入るような信心を頂きたい。いわゆる地真水心である。地の真水の心。愈々限りなく素直になって行こう。限りなく地の真を頂き表して行こう。
 そこにはお互い問題がある事は、素晴らしい事です。戎さんじゃないですけれども。そういう大きな願いを立てて、どうでもおかげを頂かねばならんと思うから、今までは出来なかった修行も、楽しゅう出来る。問題を問題としない。問題すべてを自分の心の養いの素として、それを頂いて行くと言う事が出来る。だから大きな願いを立てて、そのための修行と言う事になります時に、その修業は楽に出来てくる。
 はぁ信心しよらこんな事にまで、こげな苦労こげな辛抱せなんだろうかという様な事が無くなってくる。愈々豊かに大きく心が育って行く楽しみ。そして、これならば絶対豊かな、大きなおかげが約束されると言う様な信心。そういうおかげの受けられる信心。ために私どもの信心に筋金一本、ちゃんと通っとかにゃいけん。それも我ではない頑固ではない。絶対間違いのない筋金の通して頂ける信心を身につけて行きたいと思います。
   どうぞ。